Harada Masahiro Lab

原田真宏研究室ゼミ活動 「SYU-MAI」HP

112回 「10年前」

一等:齊藤彬人

 

講評:関健太

 

 

本年度4回目。

 

 

10年前僕は〜だった。10年前君は〜をしていた。

「10年前」という言葉を私たちはいつしか口にするようになる。

私たちは何気ない日常で、ある種時間に支配された生き物なのだろうか。

だとすると時間というものは私たちの生活で相当なまでに密に関わりうる存在であることに違いない。

そして10年という時間を遡るほど、10という数字には何かある一定の時間軸か何かが隠されているとも思う。

建築は時間を纏うものなのだろうか。

 

テーマ「10年前」

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一等案は齊藤案。

 

10年前は見かたによって変化する。1つの通過点にも見えるし、1つの完成にも見て取れる。そこから見かたに応じて完成している建築、完成していない建築を形として表現した。完成の定義というものは人が空間を掌握した瞬間だという。

空間と機能が1:1の関係性ではなく、建築の完成はその空間の使い方を使う人が発見したときである。

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1等作品

物も人も、あるいは建築も、なんとなく適した居場所や記憶に宿る場所というものが存在していて、そのような場所というものが10年という時間を遡るだけの場所を示しているのかもしれない。

模型では屋根スラブを支えている柱と同じ素材で、構造に寄与しないものが、柱の近くや屋根のかかっていない部分に配置されている。

例えば自転車が屋根で覆われない部分に寄りかかっていたり、人がベンチの上に上がっていたり。設計段階では想像もし得なかった現象が起きるのは当然である。

おそらく、通常の設計ではベンチは人が座ることを前提にして配置されている。

しかしこのような状況が生まれるとなると設計者も建築も人間の行動によって裏切られるというわけだ。

 

ほとんどの建築はその設計者の意図が空間を利用する者に伝えられないまま、現象が生じる。設計者が予想もしなかったことが起きるという話をよく耳にするように、建築はその扱い方によって無限の可能性を秘めているということである。

 

10年という具体的な数字には関与していないものの、見かたによって変化する10年前という過去を人々の行動によって誘発される思いもよらない現象が建築の場所性を定義しているように思われた。

「場所性」というキーワードが出てくるように、未来の建築が空間と機能が1:1でまとまらない新たな可能性がどのようなものかということで議論がおこった。

 

例えば音楽のPVやMVで制作過程が音楽とともに配信されたり、スーパーのレタス一つにとっても、パッケージにはレタス農家のおじいさんの写真がのっていたりと、現代社会では体験やストーリーを商品とともに魅せる時代となってきた。

建築もまたそのような生産過程や、形に至るまでのストーリーが成果物を提示する上で必要になってきているのかもしれない。そしてその密度が濃密なほど、10年の時を経て受け継がれる作品になりうるのだろうか。議論は続く。

 

 

次回のテーマは「+α」

 

参加者:栗田、齊藤、関、土田、中、渡辺