Harada Masahiro Lab

原田真宏研究室ゼミ活動 「SYU-MAI」HP

146回「9+1 振り返り」

令和五年度原田真宏研究室B4によるSHU-MAI第10回目を迎える。
今回のテーマは「9+1 振り返り」として、今までのSHUMAIを自分なりに振り返る会である。

それぞれの写真は、全て各々の作品となっている。ぜひご覧ください!

【飯泉案】
自分は自分の通念へのアンチテーゼを余計な表現を削ぎ落して表現するという方法で建築設計及び建築表現を行なっていた。
いつしかそれは建築としての価値をを失い、自身の社会に対する一方的な表現/反抗としてのアートになっていた。
SHU-MAI初期にも自分のその傾向は大きく現れていた。
だが回を重ねることで表現としての「ラフさ」を得た。
軸としてのコンセプトを持ちながら、
空間としての豊かさや敷地との接続のための操作を行う。
この後者の操作を「ラフさ」として自分は定義した。
そして今まで自分が余計な表現として切り捨てていた
「ラフさ」こそがアートと建築の差だと感じた。
この「ラフさ」に建築的な豊かさや建築操作としての楽しさを感じた。
自分はこのSHU-MAIを通じて初めて建築家としての
スタートラインに立つことが出来たのだ。

 

 

【井浦案】

今年度のSHU-MAIは大きなテーマを筋トレと設定し、全9回にわたって実施した。回数ごとにテーマ設定や表現方法を工夫することで、回数ごとに違った鍛え方ができたことは大きな収穫であると感じている。
私自身の傾向として、テーマを自分の経験や知識に基づきながら解釈しつつ、人がその空間をどう活用するか、どう感じるかを意識して制作した。特に「すべり台」においてはすべり台で遊ぶ時の自身の心情の変化を大きく三段階に分け、シークエンスを意識して表現した。また、「華やか」においては自身の森に対するイメージと小川の原体験を結び付けながら表現した。全体として常にスケール感を意識しながら、その空間を人間が体験することを意識しながら設計できたと感じる。
SHU-MAI全体を通して学んだことは、手を動かすことの大切さである。これは「華やか」以降の裏テーマであった「ラフに」が大きく関わっていると感じる。自分のデザインにおける無意識なこだわりについて「ラフに」という裏テーマが考えるきっかけを与えてくれた。頭で考えること、手を動かすことを交互に繰り返すことで、自身の作品がより洗練させていくことの大切さをSHU-MAIを通してより強く感じた。
また、「自分の居たい場所」という裏テーマも非常に重要であり、SHU-MAIにおいて重要な空間を設計するということをより促す要素であったとともに、作品を他者と共有する際、「自分の居たい場所」がその人の作品を見る視点の1つとしても与えられていたと感じる。
 SHU-MAIを通して学んだ空間操作の手段や表現方法は作品そのものだけでなく、フォーマットの表現にまで及ぶ。全9回のSHU-MAIで学んだこれらの要素を卒業設計に存分に活かしていく所存である。

 

 

【鈴木案】
シューマイをこなしていった上で、お題に向き合う力やかたちをつくる力、それを伝える力など様々な力がついたと実感している。その中でも、シューマイ特有の鍛えられた力は、対効果による力であったと思う。1週間という短い期間で課題をこなす時間対効果。持ち得る材料で作品をつくる費用対効果。短い文や簡単なビジュアルで作品を伝える作業対効果。これらは決して楽をするということではなく、どんな状況にも柔軟に対応するための余裕をつくることができる力である。この力は、これからの制作活動において非常に重要な力であるとともに、私が最も必要だと感じていた力でもあった。今までの設計課題では、案の変更をあまりしてこなかった。ひとつの案を時間をかけて深掘ることができるメリットはあるが、固執したことで案が固くなっていた。全員で意識していた「ラフさ」も、私は案に固執しないことと捉え直して課題に向き合っていた。すると、伝えたいことだけでない付加価値が案に反映され、結果的に全員が求めていた「ラフさ」にも繋がったような気がする。しかし、「ラフさ」を履き違え、案の深みが足りなくなった実感もあり、今までの深掘りと柔軟さのバランスを考えることが重要であると感じた。以上が振り返りである。力をつけるための筋トレという名目で行ってきたシューマイだが、私はとても楽しくトレーニングができたように思う。特に全員での議論の時間は、建築学部の学習において最も有益な時間の1つであった。この時間を今後も大切にしていきたい。

 

【服部案】

私たちが今年度のSHU-MAIで一貫して意識的に用いてきた手法は、「比べる」ことであった。同じ原田研という環境に集まった8人を、過去の自分と今の自分を、「比べる」ことで見えてくるものがあるのではないか。比べることは即ち観察することだ。設計課題やコンペにおいて、作品を作り上げた時点で区切りがついてしまっているような感覚があった。しかしSHU-MAIでは反対で、その「後」に重きがおかれる。作品が出揃った「後」様々な対象と「比べる」ことで初めてその回が完結する(厳密に言うと、その回もそれ以降の回の「比べる」対象となることで連綿と続いていく)。そのような軌跡や位置づけを毎回意識的に積み重ねたことが私たちの1番の成果であった。

 

【中西案】
最近整理をつけたところ私は、自分の世界が広がること、そのために知識などを得るたび自分を変えることに面白みを感じてきた。
私はやっぱり、この実験で「自分の見え方がどう変わったのか」に興味があるとわかった。
今回の○○(考え方など)を通すことで、どんな風に「見え方」が変わるのか、という観点から見直してみた。
全ての回の振り返りから、特に学びの多かった回の振り返りをピックアップした。
第2回、この会はまさにそのままのことを言っていて、人と話すことで人の「考え方」を通して、言葉を受け取るだけでなく考え方自体についても受け取ることで、それが自分の価値観(見え方)になるんじゃないか、ということ。
第4回、これも、子どもの考え方を通して、大人が失っていた見え方、に気づく、というのが表のテーマ。一方で、今振り返ることで、こんな風にグリッドありの建築(=大人)、グリッドなしの建築(=子供)と読み替えて、「記号からの設計」と「造形」を自分の中で対応させて考えていたのかもしれない。これらでも卒業設計でやってみよう。
第6回、これも、自分の関心を通すことで、自分からの見え方(パソコンと本しか見えていない視野の狭さ)に気づくというのが表のテーマ。裏テーマに焦点を当てると、ケーブルを分解したことが、は、想像と実際の乖離という考えにより拍車をかけた。想定していた「空間」は、実際に建った時もその姿を現すのか。これも卒業設計でやってみたいと思った。
このように卒業設計につながるテーマも得られたと共に、他者との比較から、より自分についても知ることができた。卒業設計に向け、造形や全体性については自分にとって苦手だと意識しながら、進めていきたい。

 

【松野】
SHUMAI9回を振り返り、私は空間を作る際、身体寸法や身体動作からいかに感じられるかを想像したり、既存のイメージの読み替えで揺さぶったりハックしてみたりすることに面白さや喜びがないかを考えていた。「華やか」や「、」のように、空間の魅力をその構築物だけで作り上げるのではなく、あえて不足さや冗長さを持って留めることで、それ自身は不安定な曖昧なものだけれど、周囲と関係性を持つことで意味が重層し深まっていくようなものが多い。つまり創り出したいものは”それ”と”それ以外”とで作れる新しい関係性であり、人の所作をきっかけに参与していけるものである。
 境界や輪郭や素材に着目し、その場を再定義したり読み替えたり引き出したりし、そこに戻れるなんとも言い難い現象や状態の、小さく深い豊かさに惹かれているのかもしれない。カタチは生まれる現象の基盤であり、現象へと繋がる始点であると考えている。

 

【江口案】
キーワードやマテリアル、実際の場所からそのアイデンティティを最小単位まで分解した上で、それをどこまで空間として飛躍させることができるかという基本的なしゅーまいのテーマに加え、個人的には建築空間とは何かという問いに対する模索をした。
そのためには、論との整合性と空間の魅力の主に2つのポイントに対し意識的に設計を行った。
課題設定されたテーマに対し、メッセージ性を持ったオブジェクトの提案だけではなく、アイレベルでの純粋な体験の提案も心がけた。
建築空間の純粋体験と論との整合性が今後自身の設計のテーマになると考えている。

 

【町田案】
SHU-MAIを振り返ると、「すべりだい」では、自身のトラウマを空間に落とし込んだり、「、」では自らの文章感覚を空間に落とし込んだりと、私は、空間と自らの人生経験を結びつけることが多いと感じた。つまり、主観的に物事を捉え、主観的な視点で観た空間を創り出す傾向があった。自分の中で空間の質の良し悪しの判断は、「客観的な視点で見たとき」を基準に考えられるものだ、と意識的に感じている為、一般論の話を持ち込むことが多いのだが、全て「自分の中ではこう考えている」という、共感性よりも普遍性を押し付けている作品が多いように感じた。
今後、空間設計の際には、特に空間を客観的に見て進めていきたい。
あと、タイトルのセンスを磨いていきたい。

 

【総評】
 
 この総評を書いている今日は、なんと4月8日である。もちろん2024年である。2023年の夏に差し掛かる頃に、私たちのSHU-MAIは幕を閉じた。その後、自分が思っているよりも早く秋が過ぎ、年は明け、何なら大学院の入学式まで済ませてしまった始末だ。


 反省すべき点があるならばそれは置いておくとして、今になってこのSHU-MAIを振り返ろうとしていることは、結局のところ正解だったんじゃないかと思ったりする。なぜなら今は、仲間8人の卒業制作を間近で見届けた後だからである。


 そもそも”SHU-MAI”の語源が”毎週”であるからして、作品の完成までの瞬発力が求められる課題ではあるが、多忙を極めていた私たちは、時に数時間で作品を仕上げる必要に迫られた (もしかしたら私だけかもしれないが) 。当然、格好をつける暇もなく、ありのままの自分がさらけ出されるわけである。各々の総評を読んでいると、そうして出てきた荒削りでまだ不明瞭なものを知ろうと、あるいはそこから逃れようと、毎回の議論を通じてもがいてきた印象である。故に、卒業制作も各々の、その延長線上にあったのではないかと今になって思えることは、当然のようで、しかし、やっぱり不思議な伏線回収を見ているような気分になる。結局自分からは逃れられていないのだと思う。


 表にまとめたように、毎回それぞれの思考の傾向を分析し、「筋トレ」と称して鍛えたい部分のための課題設定を自分たちで考えてきたことも、授業ではやらない経験として印象深かった。「3」、「華やか」、「すべり台」などの「言葉」がテーマとして与えられる回、「🥚」、「ペットボトル」、「アルミホイル」などの「カタチ或いは素材」がテーマとして与えられる回、はたまた「豊洲フォレシア」などの「空間」がテーマの回など、自らの建築設計のスタート地点に多様性を得ることを目的に、出題に変化を持たせることとした。またそれに対する応答としての作品も、毎回固定の「200mm3以内の模型」に加えて、「ビジュアル(図など)」であったり「テキスト」であったりと、各々の思考や表現の”クセ”からの脱却を試みていた。これは卒業制作ないしは今後の設計表現において少なからず役に立つ (立った) だろうと思う。


 最後に、投稿の最初の欄に「私たちのSHU-MAIは、作品を作り終わった後、始まる。」などと誰がいつ言い出したのかは定かでないがイイ感じのキャッチコピーを流用したが、割と本気でそう思っている。

(文責:服部)

 

今回は最終回です。これまで見てくださった方、ありがとうございました!

(文責:中西)