Harada Masahiro Lab

原田真宏研究室ゼミ活動 「SYU-MAI」HP

第107回 「先生」

今回のテーマ「先生」

 

一等:木村健

講評:平井悠大

 

 2018年度、第9回目。我々を導くカリスマ性を感じさせる指導者としての「先生」。古来「先生」はその知的優越性の下に特権的尊敬を集めてきた人々でした。しかし、知識の並列化と多領域への知の分極が進行し、現在の「先生」は一つの役割に過ぎなくなったと言えるでしょう。

 人は誰かに教わら無ければ、人間らしい振る舞いも、そして多くの豊かな感情すら持ち得ない存在です。教えるという行為は知識の伝達にとどまらない、人を人として耕す特別なコミュニケーションなのです。オーラを剥がされ、実存のみが残った「教える」という行為。どう教えればよいのか、できることなら誰かに教わりたいと昨今の「先生」は思っているのかもしれません。

 

 今回の作品には、そうした裸の人間としての「先生」の姿が多く見られました。

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 藤沢さん、味村くんは、相対化されてしまった先生と生徒の関係を、レベル差を用いてうまく表現しました。自由な生徒の発達が先生の幻術を脱する瞬間を描いた藤沢さん。教育の要件として親近感が求められるとして、視線の上下での抜けをとりあげた味村くん。

 洪さんは、教え導く上位の存在としての先生と、引き上げられる生徒の関係をスラブの上下するポールとして表現し、伝統的な一対一対応の師弟関係を偲ばせます。

 

 一等は、生徒のポテンシャルを引き出すものとしての先生を描いた木村くんです。

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 上下から伸びる平面は、18個の対になっています。下から伸びる平面は短所の平面、上から伸びる平面は長所の平面です。間の空間に「先生」は立ち、生徒につき一対の長短の平面を調整することになります。長所を伸ばしてあげ、さらに、短所も伸ばしてあげる。総体としての、人間の魅力を成長させる先生の姿が描かれています。

 教えの個別性と、成長という動き、また、教えにおいて発揮される先生の魔術的権能。それらが教室空間が生命を持って活動するかのように表現されました。表現のストーリー性と、身体性に優れ、共感力の非常に高い作品となりました。

 

 次点は、自身の体験を基に危うい存在としての先生を描いた宍戸くんです。

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 生徒に憧れられる先生は、嘘と虚飾に満ちている。先生という実態はその場を取り繕う嘘の塊であるとして、乱雑に立てられた多くの柱に込めました。計画性の無い柱は耐力のない構造体であり、依って立つ土台をも脆弱なものとしてしまいます。

 一方の生徒は、そんな先生に盲目的な憧れを抱きます。ヴェールのようにまとわりつく憧れが、いびつな構造体を隠すと共に、先生を虚像として形作ります。先生と生徒の共犯関係、内部に見える黒色がその危うい内実をちらりとのぞかせています。

 露悪的な体験談に裏打ちされた空間は、人間臭い先生の姿の生々しさに満ち、強い迫力を感じさせました。

 

 次回のテーマは「セヴェラルネス」です。

 

 参加者:洪、藤沢、味村、木村、宍戸