Harada Masahiro Lab

原田真宏研究室ゼミ活動 「SYU-MAI」HP

117回 「童心にかえる」

一等 土田

講評 藤本

 

本年度9回目

前回の議論となった、面白さを出すための「遊び」

子供のころは、遊びにあふれた楽しい日々だった。

そんな子供のころをおもいだしてみることが、卒業設計を行うにあたって頭を柔軟にすことになるのではないかと言うことで、今回のテーマは「童心にかえる」となった。

 

 

 

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一等作品は土田案

 

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本作品には壁で隔てられた「あちら」と「こちら」の空間が存在する。

通常は空いていて大人たちは「あちら」に行ける。

ただ時々この扉が閉まっていて「あちら」には、いくことができない。

そんなとき、いつもはドアに隠れて気が付かなかった落書きに出合う。

思わぬ出会いが生まれる。

子供たちが、童心で書いた落書きに、日々ドアを通り抜けるだけの大人が立ち止まった時に出合う。

 

「子供のころ遊んだ、遊具や秘密基地(高架下)などを思い出してみると、そこにはみんなが描いた落書きがあったな~」

 

私以外のだれもがこのように感じていた瞬間だったと思う。

 

「童心にかえる」とは、日々せかせかと生活する私たちの生活の中に楽しさを与えてくれることなのだと思う。

 

全員の童心を引き出せたことがこの作品の評価につながったと言える。

 

振り返ってみると、ここには次のテーマが隠されていた。

それは「出会い」である、作品中のおとなが童心に帰れたのは、落書きに出合ったからである。こうしてみんなが童心に帰れたのはこの作品に出合ったからである。

 

人が何かを感じるとき、そこには何か出会いがあるのではないか。

次回のテーマは「出会い」、それは人なのか、ものなのか、果たして一体みんなは何と出会ってくるのか。

 

 

116回「コーヒー牛乳」

一等:藤本翔大

 

講評:関健太

 

 

 

本年度8回目

 

前回の続きでもある今回の議題は「コーヒー牛乳」

7回目となる前回は完成と未完成について議論した。

前回の合理と合理の拮抗関係にある状況こそが未完成状態なのではないかという議論から、今回はコーヒーと牛乳という二つの合理が拮抗し出来上がる『コーヒー牛乳』について、果たしてそれを空間に置き換えて考えてみるとどのようなことが起きるのかということに挑んだ。

 

 

テーマ「コーヒー牛乳」

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一等案は藤本案。

3つのスラブによって、2つの空間を生成するもの(左の模型)と3つのスラブによって多様な場所のある二層(右の模型)がある。

 

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1等作品

コーヒーに対して、ミルク(牛乳)を入れた時、そのミルクはコーヒーに対して瞬間的に混ざるのではなく、絡み合いながら徐々にコーヒー牛乳と化してゆく。(イメージ)

完全に混ざり合った状態を左の模型とするならば、ミルクを入れた瞬間は右の模型である。その状態・空間はというとそれはそれは多様な空間が広がっている。

天井は低いが視線の広がりも持つ場所、高さを感じながらも個人の居場所としては快適な場所、座れる場所、登れない場所、うまく入れない場所、明るいところ、暗いところ、家具があるから居場所なところ、椅子がないけどベンチなところ

いろんな“ところ”が存在している。

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イメージ


確かに左の模型は、いわゆるコーヒー牛乳として完成しているのか、空間的には単調である。

だからと言って、右の空間が多様なのだろうか。

人は空間を理解していけばしていくほど、その複雑さを理解していく。

だとするならば右の模型で生まれている空間も単調なのかもしれない。

ただ、ひとつあるとすれば、その空間というものを生き物が理解していく時間の長さであるように思う。左の模型よりも、右の模型の空間を理解するのには時間がかかるだろう。なぜなら居場所がたくさんあり、ものの置き方を変えれば空間が違って見える。良い意味で複雑であるのだ。

そしてそこから見えてくる論点はそのような複雑さを持つ形を、どう作っていくかということにある。

その模型を良い意味で的当に製作したと言う藤本。

複雑さを意識的に生み出す(説明できる)のか、無意識的に生み出す(説明できない)のか。その混合状態がいいのか。

議論は絶えない。

 

この案は3つのスラブで2層の空間をつくるという操作を2つ行い、比較を用いて議論を生んだことに評価できた。

建築を作り上げていくことの中には、時には機能的に、合理的に考えなくてはならない局面は存在する。しかし面白さを生み出すための「遊び」のような行動は必ず必要であるように思われる。そのような確認ができたこともよかったことの1つである。そしてこれは次回のテーマにも繋がっている。

 

もっと面白いものをつくるために。

思考は続く。

 

次回テーマ「童心にかえる」

 

参加者:斎藤、関、土田、林、藤本

 

115回 「完成と未完成」

一等:なし

 

講評:関健太

 

 

本年度7回目。

 

完成と未完成についての議論。

襖で空間を仕切ったり、あるいはそれを全て開くことで開放的な空間にできたりと、かつての日本建築にはそのようなフレキシブルさが存在していた。

時間は経過し、建築において個人の居場所を求めるようになると、多きな分厚い壁で仕切られた建築が増える。個人の居場所というのは他人からの干渉を受けずに生活できるという意味で、それまでの生活とは異なった快適さを手に入れることができた。

そしてさらに時間が経過した今、そのような個人の快適さを追求するように構築されてきた都市や建築を今一度見直す時期に突入しているように思われる。決してかつての日本的なフレキシブルさを(未完成)追い求めるのでもなく、合理的なもの(完成)ばかりを追求するのでもない。それらのミックスがこれからの世界では必要なのかもしれない。

 

 

テーマ「完成と未完成」

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一等はなしという結果となった。

作品を順に説明する。

左下:斎藤案は完成された現在でいうオフィスビルのようなものの間、そのヴォイド空間に対して、それぞれの抑えきれない欲求が飛び出し交わることを示したコンセプト模型。

 

左上:渡辺案は光や音、視線を透過するガラスという完成された壁に対して、相対的に白色の壁に穴がいくつも開けられた壁を対峙させ、エキスパンドメタルの壁とともに空間構築したもの。

 

上の真ん中:丹下案は柱とスラブで建てられた完成物を壊し、そこから人々が主体的に完成や未完成を見つけていくという、人々の感覚に完成と未完成を委ねたもの。

 

右上:関案は完成された新興住宅地を、部分的に壊し加え、邪魔なものは捨てるか、あるいはどかす操作をし、そしてさらに壊し加え、これらを繰り返し行い、あったらいいというものを連続的に行ったもの。

 

右下:藤本案は合理的に構成された都市における、異なる完成物が互いに交わり、完成できなかったことにより生まれた「へた地」を強調し、完成が複数集まることによって未完成というものを主張したもの。

 

提案はそれぞれが卒業設計で思い悩んでいる事柄を直接的に示すものもあれば、それとは関係性はないが、卒業設計において自分が何をやりたいのかということに向かって葛藤する形態を提示しているものもある。

各案から共通して見えてきたことはあらゆる物事において完成されたものには人々は魅力をそこまで感じないということである。完全で完璧なものは付け入る隙間も存在していない。それは完成されているからである。

完成物は正しいのかと考え始めた。だからと言ってあえて未完成を創造するのはそれもどこか違う。それは浅はかな完成形を作り上げてしまうことに変わりはないからである。

見えてきたことは未完成形は完成形が存在しているからこそ見えてくるものであって、未完成なものというものは創造することはできないのである。

 

ここで「スピノザ」という哲学書に完全不完全を示す一文を提示する。

 

「かくて自然の個体をこの類に還元し、それらを互いに比較し、その上一方のものに他のものよりも多くの存在性あるいは実在性があると確認するなら、そのかぎり、一方のものは他のものより完全であると言う。そしてこの後者に限界、終局、無力などのような否定を含むものを帰属させるならば、そのかぎりそのものは不完全と呼ばれる。

 

この文章でも示されているが、完全(完成)と不完全(未完成)は相互に関係しあっているものなのかもしれないということが受け取れる。

 

合理的につくり、目に見える利便性を追求するすることばかりが全てではなく、未完成形との関係性を考えながらデザインし、それらのミックスを創造することがこれからの時代には必要なのではないか。

そのミックス、つまり完成形同士が拮抗している状態とは果たしてどのようなものか。

これは次のお題に続く。

 

次回テーマ「コーヒー牛乳」

 

参加者:斎藤、関、丹下、藤本、渡辺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

114回「つつむ」

1等 土田

 

講評 藤本

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テーマ「つつむ」

土田案

 

 

コンセプト「添い寝」

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対象を包む関係を作る案が多い中で、この案は
互いに包み合う関係をコンセプトにした唯一の案でした。

 

 

包む行為の関係性が相互に起きている状態、「添い寝」

AがBによって包まれ、BがAを包む。

 

空間は二つのくの字の壁面が互いを包み合うように配置され、そこに木柱も包み合うように配置されている。

 

いつの間にか包まれているような空間体験ができている。

 

発展性としては、建築が壁で仕切ることで、あっちとこっちをはっきりわけるのではなく、「包む」ことでゆるい内外の分割ができる気がした。もしくは、土田案のように、内と外が等価に包みあう可能性もあるのではないかとおもった。

 

 

次回は、「完成と未完成」

 

参加者:栗田、関、土田、関、丹下、中、林、藤本、渡辺

113回 「+α」

一等:藤本翔大

 

講評:関健太

 

 

 

本年度5回目。

 

多様化を続ける現代において、今はもはや単一なオーダーでは太刀打ちできない。

建築やあらゆる企画、イベント、プロダクトなど様々な分野において「+α」は必要事項となってきている。何を+するのか。+されてきた背景、そしてそもそも実態としての+が本当に正しいのかといった議論は今後何かを創造していく者にとっては大切なことである。

今を生きる私たちの世代が+αというものをどのように捉えているのか。

 

 

テーマ「+α」

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一等は藤本案。

場所に建築がつくられていくこと、その現象自体が+αの連続体であると捉えた。

確かに現代において生産されてきた建築物は様々な進化を遂げ、建築そのものが+αの産物といえる。

しかしこの案では+αの産物ともいえる建築を批判的に捉え、+αの質に目を向けている。現代の建築のほとんどは+αの量が多いように捉えられる。しかし土を掘り、柱を立て、屋根をかけ、壁を挿入するといった付加的な操作が多いほど建築が生まれる場所としての価値が失われているのではないか。(下の模型)

上の模型では、いわゆる自然地形に見立てた地面に対して、スラブや柱を必要なだけ挿入するといったスタディである。自然物と人工物が重なる構築法が、ある種の場所の価値を導く可能性を秘めている。

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1等作品

 

限りなく少ない操作でも建築は創造できる。

建築は妥協の産物とも言われるが、その中の手を加える量(+αの数)はデザインにおいて吟味されうる一つの事項なのかもしれない。

 

ヴァナキュラー建築は気候や立地、そこで住む人々の活動といった風土に応じて造られる建築である。日本では民家がその部類にあたる。

今後未来で+αの質がさらに向上していく中で、建築はより少ない操作で作ることが可能になるかもしれない。

伝統的なヴァナキュラー建築が自然に敬意を払い、自然に開放的であり、人間が自然の中で快適に活動できる空間をつくりあげている事実から私たちは学ばなければならないように感じる。

自然に対する姿勢を忘れないためにも、未来でのヴァナキュラーを求めて建築を思考する必要があるだろう。そして新たな建築の可能性を導き出していく。

 

挑戦は続く。

 

次回のテーマ 「つつむ」

 

参加者:栗田、関、土田、丹下、中、林、藤本、渡辺

112回 「10年前」

一等:齊藤彬人

 

講評:関健太

 

 

本年度4回目。

 

 

10年前僕は〜だった。10年前君は〜をしていた。

「10年前」という言葉を私たちはいつしか口にするようになる。

私たちは何気ない日常で、ある種時間に支配された生き物なのだろうか。

だとすると時間というものは私たちの生活で相当なまでに密に関わりうる存在であることに違いない。

そして10年という時間を遡るほど、10という数字には何かある一定の時間軸か何かが隠されているとも思う。

建築は時間を纏うものなのだろうか。

 

テーマ「10年前」

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一等案は齊藤案。

 

10年前は見かたによって変化する。1つの通過点にも見えるし、1つの完成にも見て取れる。そこから見かたに応じて完成している建築、完成していない建築を形として表現した。完成の定義というものは人が空間を掌握した瞬間だという。

空間と機能が1:1の関係性ではなく、建築の完成はその空間の使い方を使う人が発見したときである。

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1等作品

物も人も、あるいは建築も、なんとなく適した居場所や記憶に宿る場所というものが存在していて、そのような場所というものが10年という時間を遡るだけの場所を示しているのかもしれない。

模型では屋根スラブを支えている柱と同じ素材で、構造に寄与しないものが、柱の近くや屋根のかかっていない部分に配置されている。

例えば自転車が屋根で覆われない部分に寄りかかっていたり、人がベンチの上に上がっていたり。設計段階では想像もし得なかった現象が起きるのは当然である。

おそらく、通常の設計ではベンチは人が座ることを前提にして配置されている。

しかしこのような状況が生まれるとなると設計者も建築も人間の行動によって裏切られるというわけだ。

 

ほとんどの建築はその設計者の意図が空間を利用する者に伝えられないまま、現象が生じる。設計者が予想もしなかったことが起きるという話をよく耳にするように、建築はその扱い方によって無限の可能性を秘めているということである。

 

10年という具体的な数字には関与していないものの、見かたによって変化する10年前という過去を人々の行動によって誘発される思いもよらない現象が建築の場所性を定義しているように思われた。

「場所性」というキーワードが出てくるように、未来の建築が空間と機能が1:1でまとまらない新たな可能性がどのようなものかということで議論がおこった。

 

例えば音楽のPVやMVで制作過程が音楽とともに配信されたり、スーパーのレタス一つにとっても、パッケージにはレタス農家のおじいさんの写真がのっていたりと、現代社会では体験やストーリーを商品とともに魅せる時代となってきた。

建築もまたそのような生産過程や、形に至るまでのストーリーが成果物を提示する上で必要になってきているのかもしれない。そしてその密度が濃密なほど、10年の時を経て受け継がれる作品になりうるのだろうか。議論は続く。

 

 

次回のテーマは「+α」

 

参加者:栗田、齊藤、関、土田、中、渡辺

111回 「共存」

一等 栗田

講評 藤本

 

 

「共存」この言葉が示すことは非常に広く、すべてのものが共存にあると言えるのではないか、その中で一等になった栗田案は、時計の中を共存と捉えた案でした。

 

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時計の中には、時間を刻む短針。分を刻む長針が共存している。

 

空間には赤と白の人。

白の人は、湾曲したガラスを乗り越えながら進む。

赤い人はガラスに沿って外周を進む。

二人は異なるスピードで進み、時に出合う。

 

時計の中で起きていることがうまく表現されており評価につながったと考える。

 

この案の評価ポイントは、湾曲したガラスを沿って進むこと、横断するように進むことで一つの図式に対して2つの捉え方をするというところにあったと思う。

 

次回のテーマは、「10年前」です。

 

参加者:栗田、齊藤、関、竹田、土田、中、林、藤本、渡辺、古谷(堀越研)