一等:なし
講評:関健太
本年度7回目。
完成と未完成についての議論。
襖で空間を仕切ったり、あるいはそれを全て開くことで開放的な空間にできたりと、かつての日本建築にはそのようなフレキシブルさが存在していた。
時間は経過し、建築において個人の居場所を求めるようになると、多きな分厚い壁で仕切られた建築が増える。個人の居場所というのは他人からの干渉を受けずに生活できるという意味で、それまでの生活とは異なった快適さを手に入れることができた。
そしてさらに時間が経過した今、そのような個人の快適さを追求するように構築されてきた都市や建築を今一度見直す時期に突入しているように思われる。決してかつての日本的なフレキシブルさを(未完成)追い求めるのでもなく、合理的なもの(完成)ばかりを追求するのでもない。それらのミックスがこれからの世界では必要なのかもしれない。
テーマ「完成と未完成」
一等はなしという結果となった。
作品を順に説明する。
左下:斎藤案は完成された現在でいうオフィスビルのようなものの間、そのヴォイド空間に対して、それぞれの抑えきれない欲求が飛び出し交わることを示したコンセプト模型。
左上:渡辺案は光や音、視線を透過するガラスという完成された壁に対して、相対的に白色の壁に穴がいくつも開けられた壁を対峙させ、エキスパンドメタルの壁とともに空間構築したもの。
上の真ん中:丹下案は柱とスラブで建てられた完成物を壊し、そこから人々が主体的に完成や未完成を見つけていくという、人々の感覚に完成と未完成を委ねたもの。
右上:関案は完成された新興住宅地を、部分的に壊し加え、邪魔なものは捨てるか、あるいはどかす操作をし、そしてさらに壊し加え、これらを繰り返し行い、あったらいいというものを連続的に行ったもの。
右下:藤本案は合理的に構成された都市における、異なる完成物が互いに交わり、完成できなかったことにより生まれた「へた地」を強調し、完成が複数集まることによって未完成というものを主張したもの。
提案はそれぞれが卒業設計で思い悩んでいる事柄を直接的に示すものもあれば、それとは関係性はないが、卒業設計において自分が何をやりたいのかということに向かって葛藤する形態を提示しているものもある。
各案から共通して見えてきたことはあらゆる物事において完成されたものには人々は魅力をそこまで感じないということである。完全で完璧なものは付け入る隙間も存在していない。それは完成されているからである。
完成物は正しいのかと考え始めた。だからと言ってあえて未完成を創造するのはそれもどこか違う。それは浅はかな完成形を作り上げてしまうことに変わりはないからである。
見えてきたことは未完成形は完成形が存在しているからこそ見えてくるものであって、未完成なものというものは創造することはできないのである。
ここで「スピノザ」という哲学書に完全不完全を示す一文を提示する。
「かくて自然の個体をこの類に還元し、それらを互いに比較し、その上一方のものに他のものよりも多くの存在性あるいは実在性があると確認するなら、そのかぎり、一方のものは他のものより完全であると言う。そしてこの後者に限界、終局、無力などのような否定を含むものを帰属させるならば、そのかぎりそのものは不完全と呼ばれる。
この文章でも示されているが、完全(完成)と不完全(未完成)は相互に関係しあっているものなのかもしれないということが受け取れる。
合理的につくり、目に見える利便性を追求するすることばかりが全てではなく、未完成形との関係性を考えながらデザインし、それらのミックスを創造することがこれからの時代には必要なのではないか。
そのミックス、つまり完成形同士が拮抗している状態とは果たしてどのようなものか。
これは次のお題に続く。
次回テーマ「コーヒー牛乳」
参加者:斎藤、関、丹下、藤本、渡辺